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2009.02.10

小さい時のこと

両親とも音楽家ではなかったが音楽は好きだった。第2次世界大戦後東京の家は焼け母が持っていたピアノも焼けてしまった。私に何か習わせるということで、とりあえずどうにか手に入ったのがViolinだったわけだ。その頃父は電波関係の役人で私たちは広島に住んでいた。原爆の翌年で私は4歳だった。Violinは16分の1、8分の1、4分の1、2分の1、4分の3、フルサイズとあり、16分の1が4歳の子供には良いサイズなのだが手に入ったのは2分の1サイズ、1枚だけ写真があるが左腕を完全に伸ばしてやっと指を押さえる場所に届いている。先生は外国人の神父さまで、その時どんな音をだしていたか知るすべもないが割りに要領がよかったのかすぐに何かメロデイなど弾いていたようだ。広島の町はまだめちゃくちゃで焼け爛れた人など町で見かける時代だった。

郊外(五日市)に住んでいたのだが濃い色のすみれがあぜ道に咲き、台風の後は養殖の牡蠣が流れ着き、海で父が大きい石を退けると下に大きい蟹がいる、というような所だった。官舎に住んでいたのだが管理する人が畑も作っていておいしいトマトやえんどう豆などもあった。

その後父が東京転勤になってからはあちこちの官舎に住んだが全部東京都内である。吉祥寺。原宿(その頃は焼け跡)方南町に住んだ。私が日本を出た後も両親は2度ほど引越し参宮橋に自分達のマンションを持ったのがもうかれこれ40年も前のことだ。


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Posted at 21:04 | エトセトラ | COM(2) | TB(0) |
2009.02.03

カリフォルニアの思い出 つづき

南カリフォルニアには25年以上住んだことになる。 山火事は毎年どこかである。それによって繁殖する植物もある。ある年Malibuが大火事になった。サンタモニカの海岸から湾を隔てて向こう側だ。夜ビーチから眺めていたのだがその美しいこと!住民たちは大変だったろうが本当に見とれてしまった。ネロがローマを焼いた気持ちもわからないことはないと思った。

CalArtsはいわゆる砂漠地域にある。そこからVentura(海辺の町)に行く田舎道の両側はオレンジ畑で春、特に夜ドライブするとその香りの強さはすさまじく甘く酔っ払いそうだ。 少し走ればCalifornia Poppyの咲き乱れる丘もあるし、Joshua tree、 Yucca 等が生え茂る場所も多い。

必然とそういうところに住む生き物も居る。友人宅でリハーサル中にscorpion(さそり)を踏みそうになったり、家のガレージに大きなtarantulaが居たり・・・(タランチュラは見た目はでかくて恐ろしいが案外毒は弱く腕を這わせたりする人もいる。)山を散歩する時はガラガラ蛇に出くわすこともあった。Coyoteはロス市内にも出没するがちゃんとごみの日を知っている。スカンク、うずら、ロードランナーなども住んでいた。

猫を何匹か持ったが皆あまり長生きはしないようだ。居なくなるのだ。ふくろうとかCoyoteに取られることが多いそうだ。しかし、今私と一緒にいる猫(名はThelius、シリちゃん)はカリフォルニアうまれの17歳である。ちなみに、アメリカでは動物を飼うとは言わない。I have catsという言い方をする。I have childrenと同じ言い方だ。餌という言い方もしない。Cat foodである。つまり動物は家族で、家の場合、私は猫からみれば彼に仕える使用人にすぎない。

Posted at 19:41 | エトセトラ | COM(0) | TB(0) |
2009.01.24

カリフォルニアの思い出 つづき

Subramaniamという素晴らしいインドViolin奏者がいる。あぐらをかいて弾く奏法だ。その頃すでにインド音楽の方では知られている人だったのだがどういうわけかCalArtsにクラシックViolinを習いに来た。私の教えた中でこれはユニークな経験であった。 

まず、何を弾いても音程は完璧!インド音楽では4分の一音(ピアノは半音が一番狭い音程)を使い分けるのは当たり前との事だ。指が良くまわる。PaganiniのCapriceなど簡単にこなしてしまう。 ところがBachとかMozartの4小節が弾けない。全くフレーズにならないのだ。一つづつの音をどのように弾くか克明に機械的、技術的に説明しないとだめなのだ。普通ならもっと歌って!と言うだけである程度フレーズになるのに・・・

インド人はなるほど、という時首を横に振る。何か私が言う度に首を横に振るのでイヤイヤをされているようで慣れるまで大変だった。 又彼は私の名前をMatsuddhaと綴った。Buddha(仏陀)のごとくである。

CalArtsには本当に面白い人が居た。 インド音楽の学生でサーカス出身の男がいた。音楽科への入り口への廊下は下はコンクリートで10メートルぐらいあった。その手すりの上をこの人は逆立ちして歩いていた。

目の見えない作曲科の生徒が居ていつも入り口のあたりに座っていた。私が通ると必ずHi! Yokoと挨拶した。足音で誰だかわかるのだそうだ。そうそう、この学校では学長から生徒まで全員first name呼ばわりだった。 日本で何々先生と呼ぶのは親しみがあって好きだが先生同士が先生付けで呼び合うのはいまだに慣れない。

Posted at 15:02 | エトセトラ | COM(0) | TB(0) |
2009.01.22

カリフォルニアの思い出

生徒、友人でこのサイトを作ってくれたKenkiに、まだ何も書いてないじゃないか!と言われた。 彼と会うたびにいろいろ話をするがそういうことを書けばいいと言われる。 

1960年にアメリカへ行き1997年に日本にもどりそして早10年も経ってしまった。

私はこの3月で昭和音楽大学が停年になる。 日本の学校は年齢停年がある。(アメリカではそれは差別であるとされていてない)。 25歳から今年まで40年学校を通しておしえたことになる。California Institute of the Arts (通称CalArts), Pomona College,(両方ともカリフォルニア州)そして昭和音大が主な学校だ。

カリフォルニアの思い出

CalArts は1971年にDisneyがお金を出して造られた当時とてもprogressiveな芸術院でAnimation, Art,Film,演劇、などが音楽の他にあり、Music Schoolの中にもジャワ、インド、アフリカ音楽、電子音楽とかがあり、普通のクラシック音楽は押され気味の感じだった。 Yale大学で普通に音楽を勉強した私にとってこれはなかなかおもしろかった。

初めてのFaculty Meeting(教授会)は庭の芝生に回るく座ってウイスキーの回し飲みが行われた。アフリカ音楽の先生の父親が亡くなったとかでその儀式だとかいう話だった。

私の始めの生徒は二人の男の子だった。一人は最初のレッスンでいきなり体をくねらせてimprovisationをはじめた。私はそういうのは教えられないと言ってその子は学校を去った。何年も後にその子は他の大学をViolinで出てCalArtsの大学院でマスターを取った。卒演にはBachのSolo Sonata ハ長調を弾いたと記憶している。

もう一人の子はあまり上手ではなかったがおとなしく一生懸命言われたことをやる子だった。 ある日次ぎの曲の楽譜を私が彼の家に届けることになり、Malibuの山の彼のところまでドライブしていった。着いてみたらそこはNudist Colonyだった。 彼は着物をきて私を待っていたけど他の人は皆真っ裸だった。 (つづく!)





Posted at 18:50 | エトセトラ | COM(0) | TB(0) |
2008.10.03

はじめに・・・

ブログとやらを始めることになりました。どうなることやら・・・お客の前で演奏するのとちがい、何か書く、それも誰にたいして書くのかもよくわからない・・・そして日本語で・・・不思議な気分です。

Posted at 21:17 | エトセトラ | COM(0) | TB(0) |
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